昭和45年(1970年)頃、全国各地の団地建設ラッシュも終わり、日本住宅公団後援の、“関東.関西.東海”の各地域団地の代表による、団地対抗野球交流大会”が開催されていました。
 昭和49年(1974年)秋、東海地区の団地新聞“奥様ジャ−ナル社”より各団地の自治会を通じ、「団地に少年野球のチ−ムを結成して少年野球大会をする事は出来ないか」と打診がありました。
 その趣旨に賛同した当時の、中日新聞社のスポ−ツ事業部の担当者が、中日少年野球大会以外に、県内各地に新たに大会を開催する事は、少年野球の普及振興に貢献する故と、協力を約束されました。
 
 そこで、各団地居住者の中で、団地役員及び野球経験者が、鶴舞公園公会堂会議室に20人程参集し、協力に賛同した各団地が少年野球チ−ムを結成、参加約10チ−ム程で翌年に春季大会を行いました。
 
 その大会開催の報道が功を奏し、秋季参加チ−ムが20チ−ム程になり、翌年より本格的に大会を開催するにあたり大会名を決定する必要に迫られました。 そこで“奥様ジャ−ナル社”の助言により、既に“関東団地少年野球連盟”及び“関西団地少年野球連盟”が存在し、両連盟とも春季&秋季の大会を開催している事が判明、我らも正式名称を“東海団地少年野球連盟”と決定しました。
 
 毎年“春季大会.秋季大会”の開催にあたっては、中日新聞社&東海団地少年野球連盟共催、愛知県(後援)奥様ジャ−ナル社(後援)日本住宅公団(後援)の下、正式に昭和51年(1976年)春季大会から開催しました。

中日新聞及び東海団地少年野球連盟(優勝旗争奪)

日本住宅公団(優勝旗争奪)

愛知県知事(優勝杯争奪)

 2年後(昭和53年)から、夏季の大会開催の要望が多く、新たに愛知県知事より優勝旗を頂く事で、優勝旗争奪夏季大会の開催に至り、年間3大会の開催を行ってきました。

 連盟発足時に、当時の仲谷県知事から愛知県知事賞をご提供頂くにあたり三つの条件を厳守する事を要求されました。

  1.  大会参加チ−ムを団地のチ−ムに限らず、多くの県内の
     チ−ムを参加可能にする事。
  2.  運営に当たり、一切の政治色を介入させない事。
  3.  如何なる、企業の冠をつけない事。


 この、三条件を厳守する事を約束して、県知事よりの“春季、秋季”優勝杯。“夏季”優勝旗を争奪。 愛知県のご後援を頂く程の伝統と歴史のある連盟となりました。

愛知県内の、少年野球普及に貢献する為、知多地区をはじめ各地で、開会式を挙行し、多くの少年野球チ−ムが結成され、また当連盟の大会に参加される様になりました。

 その後、各地域や企業冠の数多くの大会が開催され、当連盟は東海地域の少年野球の普及のになったと自負しています。



東海団地少年野球連盟、歴代の連盟理事長及び副理事長

初代:稲葉武彦(岩倉団地) 副理事長:水谷浩之、関亜夫

二代:小泉昭司(保見ケ丘) 副理事長:水谷浩之、関 亜夫

三代:松下久良人 (原山台) 副理事長:水谷浩之、関 亜夫

四代:関 亜夫 (相生山) 副理事長:平野晴彦、長谷川千昭

五代:水谷浩之 (有松) 副理事長:湯本哲夫、金井五十四、杉浦恒美

六代:金井五十四(知立サウス)、 副理事長:林広志、石川健、森建司、塚野耕司

東海団地少年野球連盟


                 【 用語 】

へん‐せん【変遷】 
時の流れとともに移り変わること。
とうかいだんち【東海団地】 愛知県内の公営団地の総称として使われている言葉。 東海団地と言う場所があるわけではない。
いしずえ【礎】 物事の基礎となる大切なもの。また、その人。
【奥様ジャーナル社】30代〜50代中心のフリーペーパー、公営住宅を中心に配布している。発行部数約14万部を誇る。

東海団地少年野球連盟の変遷